周防大島〜その1

周防大島から広島へ曳航される〈ホクレア〉の上で、クルーのアトウッド・マカナニさん(通称マカさん)は、テレビ新広島のカメラに向かって興奮しながら語り続けていたという。語りながら、周防大島でお土産にいただいたみかんを、これまた絶え間なく食べ続けていた。
「いいか、オレの住むカフォラヴェ島には木なんて一本も生えていないんだ。それに較べて周防大島の豊かな森はどうだ。みんな、こんな森こそ大切にしなきゃいけないんだぞ……ところでオマエ、みかん食べるか? うまいぞぉ、このみかんは」

〈ホクレア〉の上では、たびたびナイノア船長から全員集合の号令がかかるけれど、マカさんはまったく気にも留めず語り続けていたという。そのインタビューは時間が長すぎて編集できず、番組では使えなかった。何とか他のカタチで見たいもんだけどね。
マカさんだけではない。横浜にゴールした後、何人かのクルーに「ミクロネシア〜日本を通じて最も印象に残った島」を聞いてみたところ、その答えはサタワル島でもヤップ島でもなく、周防大島と宮島がブッちぎりの一番人気だったのだ。

日本航海の最中、最も感動的シーンの予想された瀬戸内海レグの取材に、僕は行けなかった。あの時はホントにくやしくて、いつか絶対行こうと思っていた周防大島にようやく来ることができた。
しかも日付は5月23日。〈ホクレア〉が3年前、この島に着岸したその日に合わせてやって来たのだ。
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時は19世紀末、急速に拡大していたハワイの砂糖産業の労働力として、第一回官約移民が始まったのが1885年。当時、自然災害が続き、餓死者も出るほどに追い込まれていた周防大島からは、特に多くの人々が海を渡った。第一回の移民では大島出身者が全体の三分の一を占め、官約移民時代を通じて実に3900名もの人々がハワイに渡ったのだという。その当時、知恵も文化もありながら、故郷を離れなくてはならないほど貧しかった日本の人々。一方、土地を所有するという概念を持たなかったために、他国から搾取され続けたハワイの人々。この両者による文化の融合は、ここから始まった。
今でも島の中心部に行くと、時報として流れる音楽は『アロハ・オエ』なのだ。しかし、この島で聴くおなじみのメロディは、湘南あたりで聴くものとはまったく違う曲として響いてくる。
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〈ホクレア〉の停泊していた港へ行ってみると、ご覧の通りの静けさだった。しかし近寄ってみると、〈ホクレア〉が港に浮かぶ姿や、部材の擦れる乾いた音や、〈ホクレア〉そのもののサイズが手に取るように蘇ってくる。ナイノアさんはこのあたりをビーサンでジョギングしていたらしいけど、その姿も容易に想像できる。そう言えば藤井木工の大工さんは、この場でメインセイルを修理し、クルーたちの驚嘆を浴びた。ある時、一組の老夫婦が〈ホクレア〉に乗せて欲しいと訪ねてきた。一般の人の乗船は禁止されていたけれど、マカさんは快くお二人を案内した。するとご夫婦は、二人とも靴を脱ぎ、キレイに揃えて〈ホクレア〉に乗り、下りた後には丁寧にお辞儀をして去って行ったという。
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クルーの宿泊先となったスポーツ施設『グリーンステイ長浦』の会議室には、今も〈ホクレア〉の模型が展示され、廊下には日本航海のようすを撮った写真の数々が、パネルとなって展示されている。どうやらこの周防大島では、日本航海が島の歴史の一部として、すっかり定着しているようだ。ちなみにこの施設には日帰り温泉があり、KONISHIKI指導によるハワイアンレストランがあり、などなど、とても居心地のいい施設なのだ。大雨で中止になった3周年記念イベントも、ここで行われる予定だった。延期となり、次回予定は7月17日とのこと。残念だけど、僕はお邪魔できませんが。
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周防大島を去る日、午前中いっぱいは宮本常一資料館に浸りきった。彼は小説も残しており、その小説は原稿をまるごとカラーコピーして、綴じて販売されている。限定100部ということだけど、これは家宝になるな。タイトルは『三等郵便局員』。もったいなくて、まだ読んでいないんだけどね。
そして午後に『日本ハワイ移民資料館』へ。ここは移民としてサンフランシスコへ渡った島民の方が、帰国して建てた民家をそのまま利用したもの。成功して帰国した人々のライフスタイルが偲ばれる、建物自体がとても貴重なものだ。詳しくはサイトをご覧いただくとして、僕が何より強く印象を受けたのは、移住先で生まれ育つ子供たちへの母国語教育についてだった。学年別に丁寧に作られた国語教科書の数々から、海を渡った人たちの日本への思いが伝わってくる。僕はそのうちの一冊を手に取りながら、亡くなった〈マカリィ〉の元船長、クレイトン・バートルマンの言葉を思い出していた。
「日本は戦争に負けたけど、日本語までは失わなかった。これは本当にラッキーなことだったんだ」
(続く)
by west2723 | 2010-06-05 00:56 | ホクレア


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