もっと、農家からのTweetを読みたい!

(下の話の続き)
旅先でたまたま聞きかじった話ではあるけれど、このような問題は、おそらく日本全国の農村でも起きているんだろうと想像する。そしてこれは農業だけではなく、漁業でも林業でも、あらゆる第一次産業の現場で同様に起きているんだろうと想像する。

怖いことだよね。都会に住んでいると衣食住のほとんどを「誰かが作ってくれたもの」に頼っていて、そんな生活が続いていることに何の疑問も感じないけれど、この供給が突然途絶えたらどうなるんだろう。途絶えないまでも、価格がジリジリと高騰することもある。また、すべてが同時に止まることは無いまでも、「食」の一部の供給が止まり、パニックが起きることもある。想像するだけでは何もしないのと同じだけれど、困ったことに行動の切っ掛けとなるような確かな情報があまりに少ない。

ネットがあるじゃん、と思う人も多いはずだ。しかしご存じの通り、玉石混淆の情報を検索しながら必要な情報に辿り着くには、一日中コンピュータに向き合わなくてはならない。しかも肝心の農家のお年寄りたちが自らブログやツイッターやUSTを駆使しながら情報を発信し続けてくれない限り、いつまで経ってもリアルな情報など流れてこない。情報を集めるにあたってネットは万能なものと思われがちだけど、発信者がいない限り、ネット上には情報の空白地帯が生まれる。それが誰の目にもおなじみの、日本の農村なのではないかと僕は思い始めている。

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# by west2723 | 2010-06-27 22:15 | 陸での話

東京で語られる「green」への提案。

〈ホクレア〉がやって来た頃、たびたび素敵なメッセージを送ってくれたシーカヤックビルダーさんのご自宅を訪ねた。お住まいが下関ということだったので、海峡、港の気配が濃厚な土地を想像していたものの、カーナビの案内した土地は、それとはまったく逆の、ホタルの里とも呼ばれる深い山の中だった。下関市って広いんだなぁ。近所には温泉も多い。田植えを終えて間もない田園風景に、点在する集落。その中に、今夜、僕が訪ねるべき一軒がある。なんだかとてもうれしい。

ご自宅に併設された工房では、木製の骨組みのシーカヤックと、同じく木製で、細長い長方形のブレードを持つパドルが作られている。このパドル、見た目は扱いにくそうなんだけど、水の抵抗が少ないために長距離を漕ぐと疲れの出方がまるで違うらしい。森があるからカヌーができる、カヌーができるから海に行ける、と〈ホクレア・ハカ〉は唱えるけれど、それを実証するような話だ。ちなみにこのパドルは売れ行き好調なようで、何本かの木材がデビューに備えて削り出し作業の途中だった。
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定住促進制度に応募して、この土地に移ってから20年あまり。今ではお子さんも成長されたので、いよいよ本腰を入れて地元の農業の活性化に取り組んでいる。初めて眺めてみる限り非常に豊かな田園風景ではあるけれど、ここでも農村の高齢化は深刻な問題らしい。高齢化すれば、農作業がつらくなることはすぐに想像がつく。がしかし、それは問題のうちのほんの一部なのだ。

「たとえばあそこに川がありますよね。あの川から用水路が引かれていますが、そのためには土手の補修をしなくてはならない。放っておくと、いつ決壊するかわからんし。つまり、田んぼを守るために、そういうキツい仕事もたくさんあるんです。しかもカネがかかる。カネは自治体も出すんですが、その何割かはその水利権を持つ農家も負担しなくてはならない。となると、もう農作業もようできんし、カネまでかかるんじゃやっておられん、ということで、水利権を手放してしまうんですね」

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# by west2723 | 2010-06-08 20:33 | 陸での話

周防大島〜その2

たしかに島とは言うけれど、周防大島って東西にけっこうデカい。本州と島を繋ぐ大島大橋を渡ってから、島の東部、宮本常一の出身地である東和地区まで15kmくらいあったんじゃないかな。だから橋を渡って「さあ着いたぞ」と思ってしまうと、感覚的に、そこから先がとても遠くなってしまう。
これほど大きな島でありながら、これといった観光のメダマは無い。無いけれど、そこには濃密な森の気配、そして魚の息づかいが聞こえてきそうなほど豊かな海がある。地元の人たちは、ごく日常的なこととして釣りを楽しんでいる。もはやこれ以上、何が必要だと言うんだろう。
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〈ホクレア〉が沖縄に到着して間もなく、写真家のニック加藤さんは一足先に周防大島に入り、この島のようすをかなり細かく見て回ったらしい。そんな中、「いい喫茶店を見つけたんですよ〜」と教えてくれたのがたぶんこのお店、『コナ』なのだ。大島大橋から移民資料館に向かうメインストリート沿いにある。目印は未だ現役で活躍する赤い郵便ポストだ。

オープンしたのは40年も前のこと。以来、店内の雑貨は年を追うごとに増え続け、今はこんな具合。開店当時は現役だったオープンリールのオーディオセットもそのまま。今ではすっかりアンティークと化している。コーヒーの挽き売りもしてくれて、例えばハワイコナは東京の8割くらいの金額で買うことができる。ちなみにブレンドコーヒーは一杯400円。
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「ここは豊かな島ですよ。見ての通り田んぼはあるし海もあるし、ご近所の農家は食べきれないくらいの野菜を届けてくださるし、お米さえ用意しておけば、食べるに困ることはないんじゃないでしょうか」と、阪神ファンの奥さんは語ってくれた。「ワタシもこのお店は、道楽でやっているようなもので……」

地方イコール仕事が無い、という、最近の日本ですっかり定着した常識は、この島ではどうも当てはまらないように思う。護岸の仕事もけっこう多いらしい。それによって工事が行き過ぎたり、不要なテトラポットが並ぶのはイヤだけど、環境が破壊されている、というほどの印象は受けない。いずれにしても、この島の中で経済が完結している印象が強い。実際のところはどうなんだろう? 大島にお住まいの方、そのあたりの事情をお知らせいただければサイワイです。
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ところで、この島で見る濃密な森のほとんどが原生林だという。長い間、橋が架からなかったために乱開発から免れたのだろうとのこと。日本中どこにでもあるような、ゴルフ場だらけのリゾートにならなくてホントによかったと思う。

ということで、周防大島でのセンチメンタルジャーニーは終わった。大島商船のF先生、ご挨拶もせずに大島を去ってしまってスミマセン。その日は平日。ワタシが来たくらいのことで、学校の先生を呼び出すわけにも行かないと思い遠慮いたしました。このままアロハ、させていただきます。
なお、せっかくの被写体なのでトイカメラ風に撮影してみました。ちょっとやり過ぎたかな? 企画倒れを正直に認めつつ、レタッチせずに載せておきます。
# by west2723 | 2010-06-06 12:14 | ホクレア

周防大島〜その1

周防大島から広島へ曳航される〈ホクレア〉の上で、クルーのアトウッド・マカナニさん(通称マカさん)は、テレビ新広島のカメラに向かって興奮しながら語り続けていたという。語りながら、周防大島でお土産にいただいたみかんを、これまた絶え間なく食べ続けていた。
「いいか、オレの住むカフォラヴェ島には木なんて一本も生えていないんだ。それに較べて周防大島の豊かな森はどうだ。みんな、こんな森こそ大切にしなきゃいけないんだぞ……ところでオマエ、みかん食べるか? うまいぞぉ、このみかんは」

〈ホクレア〉の上では、たびたびナイノア船長から全員集合の号令がかかるけれど、マカさんはまったく気にも留めず語り続けていたという。そのインタビューは時間が長すぎて編集できず、番組では使えなかった。何とか他のカタチで見たいもんだけどね。
マカさんだけではない。横浜にゴールした後、何人かのクルーに「ミクロネシア〜日本を通じて最も印象に残った島」を聞いてみたところ、その答えはサタワル島でもヤップ島でもなく、周防大島と宮島がブッちぎりの一番人気だったのだ。

日本航海の最中、最も感動的シーンの予想された瀬戸内海レグの取材に、僕は行けなかった。あの時はホントにくやしくて、いつか絶対行こうと思っていた周防大島にようやく来ることができた。
しかも日付は5月23日。〈ホクレア〉が3年前、この島に着岸したその日に合わせてやって来たのだ。
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時は19世紀末、急速に拡大していたハワイの砂糖産業の労働力として、第一回官約移民が始まったのが1885年。当時、自然災害が続き、餓死者も出るほどに追い込まれていた周防大島からは、特に多くの人々が海を渡った。第一回の移民では大島出身者が全体の三分の一を占め、官約移民時代を通じて実に3900名もの人々がハワイに渡ったのだという。その当時、知恵も文化もありながら、故郷を離れなくてはならないほど貧しかった日本の人々。一方、土地を所有するという概念を持たなかったために、他国から搾取され続けたハワイの人々。この両者による文化の融合は、ここから始まった。
今でも島の中心部に行くと、時報として流れる音楽は『アロハ・オエ』なのだ。しかし、この島で聴くおなじみのメロディは、湘南あたりで聴くものとはまったく違う曲として響いてくる。
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〈ホクレア〉の停泊していた港へ行ってみると、ご覧の通りの静けさだった。しかし近寄ってみると、〈ホクレア〉が港に浮かぶ姿や、部材の擦れる乾いた音や、〈ホクレア〉そのもののサイズが手に取るように蘇ってくる。ナイノアさんはこのあたりをビーサンでジョギングしていたらしいけど、その姿も容易に想像できる。そう言えば藤井木工の大工さんは、この場でメインセイルを修理し、クルーたちの驚嘆を浴びた。ある時、一組の老夫婦が〈ホクレア〉に乗せて欲しいと訪ねてきた。一般の人の乗船は禁止されていたけれど、マカさんは快くお二人を案内した。するとご夫婦は、二人とも靴を脱ぎ、キレイに揃えて〈ホクレア〉に乗り、下りた後には丁寧にお辞儀をして去って行ったという。
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クルーの宿泊先となったスポーツ施設『グリーンステイ長浦』の会議室には、今も〈ホクレア〉の模型が展示され、廊下には日本航海のようすを撮った写真の数々が、パネルとなって展示されている。どうやらこの周防大島では、日本航海が島の歴史の一部として、すっかり定着しているようだ。ちなみにこの施設には日帰り温泉があり、KONISHIKI指導によるハワイアンレストランがあり、などなど、とても居心地のいい施設なのだ。大雨で中止になった3周年記念イベントも、ここで行われる予定だった。延期となり、次回予定は7月17日とのこと。残念だけど、僕はお邪魔できませんが。
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周防大島を去る日、午前中いっぱいは宮本常一資料館に浸りきった。彼は小説も残しており、その小説は原稿をまるごとカラーコピーして、綴じて販売されている。限定100部ということだけど、これは家宝になるな。タイトルは『三等郵便局員』。もったいなくて、まだ読んでいないんだけどね。
そして午後に『日本ハワイ移民資料館』へ。ここは移民としてサンフランシスコへ渡った島民の方が、帰国して建てた民家をそのまま利用したもの。成功して帰国した人々のライフスタイルが偲ばれる、建物自体がとても貴重なものだ。詳しくはサイトをご覧いただくとして、僕が何より強く印象を受けたのは、移住先で生まれ育つ子供たちへの母国語教育についてだった。学年別に丁寧に作られた国語教科書の数々から、海を渡った人たちの日本への思いが伝わってくる。僕はそのうちの一冊を手に取りながら、亡くなった〈マカリィ〉の元船長、クレイトン・バートルマンの言葉を思い出していた。
「日本は戦争に負けたけど、日本語までは失わなかった。これは本当にラッキーなことだったんだ」
(続く)
# by west2723 | 2010-06-05 00:56 | ホクレア

日本から来た人たちは決して偉そうにせず、ハワイアンと共に働いた

写真家のニック加藤さん、亡くなったタイガー・エスペリさん、そして僕の三人で、マウイ島の東端にあるハナの街まで小さな旅に出たことがある。周防大島の宿で本を読みながら、僕はふと、この旅のことを思い出していた。

あの時は宿も決めずにハナの街に入り、木造の建物が素敵な『ハセガワ・マーケット』に入って近所の宿を探し、ニックさんの提案で日系人の夫婦が経営する小さなB&Bに入ったのだった。70代と思しき初老のご夫婦で、すでに日系二世とのこと。その時ご主人は外出中だったものの、みんな時間は充分にあったので、奥さんの昔話をいろいろ聞くことができた。

まず驚いたことは、非常にきちんとした、明治時代を思わせるような日本式の挨拶で迎えてくれたことだ。僕はとても恐縮したけれど、彼らにとってはそれが日常なのだろうと思うことにして、平静を装っていた。おそらく、すでに亡くなったというご両親は、ハワイに渡ってくる前の明治時代の「躾」で、この女性を育てていたのだろう。つまり日系ハワイアンの古い世代は、明治時代の日本人そのままの立ち居振る舞いで、今のハワイを生きていることになる。日系ハワイアンのご老人に会うと、亡くなった祖母に会うような懐かしい気分になるのは、きっとそういう理由によるものなのだろう。

「この街に入る手前で、頂上に椰子の木が生えた島が見えたでしょう? あの椰子の木は、私の父が60年以上も前に植えたものなんですよ」
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翌朝、あの島を見に行こうと提案したのはタイガーだった。
「日本人は本当に多くのことをハワイに伝えてくれたんだ。ハワイアンを労働者として使いながら、自分たちだけが金持ちになって行くような他の国の連中とは、そこが違っていた。ハワイアンと一緒に働きながら、ハワイアンたちに、自然の中で生きるいろいろな知恵や技術を残してくれたんだ。あの椰子の木を見ておけよ。あの木は、そんな優しい日系人たちの心、そのものじゃないか」

なぜ日本人だけがネイティブのハワイアンに溶け込み、共に生き抜くことができたのか、僕には想像でしか語ることはできない。しかし客観的な事実として、共に「島」に住んでいるということには注目しておきたいと思う。お互いに海に囲まれ、島から逃げて行くことはできない。住民どうしが共に協調しながら、海と自然と向き合い、自然からの恵みを分け合いながら生きて行く以外にない。そんな感覚が、はるか南の島からカヌーに乗って移り住んだハワイアンのDNAと、日本列島に住む日本人のDNAの中に、共通して宿っていたのではないか。
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今、ハワイ独自の文化とされるものの中に、日本の文化とハワイの文化が融合して生まれたものはどのくらいあるのだろう? よく知られている通り、アロハシャツは、ハワイに渡って間もない日系の人が、和服の布地をハワイの風土に合わせて作り直したのが始まりだ。今では「弁当」も「豆腐」も、すっかりハワイのランチメニューに加わった。そして今回は、周防大島の古い木造家屋を眺めながら、映画になったホノカアや、ヒロの木造家屋を僕は思い出していた。あのような昔懐かしいハワイの町並みもまた、日本の木造建築をハワイに持ち込んでできたものではないか、と想像するのだ。ちなみにホノカアの街なみには、主に熊本出身の人々が住んでいたと聞いている。観客たちはスクリーンに映し出されるホノカアの街に、昔の日本を見ているのかもしれない。

僕も含め、ハワイに憧れて、ハワイの音楽や風俗を学ぶ人は非常に多い。だったら一度、日系ハワイアンの歴史を辿ってみてはどうだろう? 日本人どうしが、日本にいながら「アロハ!」なんて慣れない挨拶を交わすよりも、フラもハワイアンキルトもアウトリガーカヌーもスラックキーギターも何もかも、より深く理解できるに違いない。
これは3年前、〈ホクレア〉と関わりながら、いつも感じていたことだ。ハワイがわかれば日本がわかる。そして日本がわからなければ、決してハワイを知ることはできない。僕は今でもそう思っている。
# by west2723 | 2010-06-02 20:36 | 陸での話