周防大島〜その2

たしかに島とは言うけれど、周防大島って東西にけっこうデカい。本州と島を繋ぐ大島大橋を渡ってから、島の東部、宮本常一の出身地である東和地区まで15kmくらいあったんじゃないかな。だから橋を渡って「さあ着いたぞ」と思ってしまうと、感覚的に、そこから先がとても遠くなってしまう。
これほど大きな島でありながら、これといった観光のメダマは無い。無いけれど、そこには濃密な森の気配、そして魚の息づかいが聞こえてきそうなほど豊かな海がある。地元の人たちは、ごく日常的なこととして釣りを楽しんでいる。もはやこれ以上、何が必要だと言うんだろう。
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〈ホクレア〉が沖縄に到着して間もなく、写真家のニック加藤さんは一足先に周防大島に入り、この島のようすをかなり細かく見て回ったらしい。そんな中、「いい喫茶店を見つけたんですよ〜」と教えてくれたのがたぶんこのお店、『コナ』なのだ。大島大橋から移民資料館に向かうメインストリート沿いにある。目印は未だ現役で活躍する赤い郵便ポストだ。

オープンしたのは40年も前のこと。以来、店内の雑貨は年を追うごとに増え続け、今はこんな具合。開店当時は現役だったオープンリールのオーディオセットもそのまま。今ではすっかりアンティークと化している。コーヒーの挽き売りもしてくれて、例えばハワイコナは東京の8割くらいの金額で買うことができる。ちなみにブレンドコーヒーは一杯400円。
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「ここは豊かな島ですよ。見ての通り田んぼはあるし海もあるし、ご近所の農家は食べきれないくらいの野菜を届けてくださるし、お米さえ用意しておけば、食べるに困ることはないんじゃないでしょうか」と、阪神ファンの奥さんは語ってくれた。「ワタシもこのお店は、道楽でやっているようなもので……」

地方イコール仕事が無い、という、最近の日本ですっかり定着した常識は、この島ではどうも当てはまらないように思う。護岸の仕事もけっこう多いらしい。それによって工事が行き過ぎたり、不要なテトラポットが並ぶのはイヤだけど、環境が破壊されている、というほどの印象は受けない。いずれにしても、この島の中で経済が完結している印象が強い。実際のところはどうなんだろう? 大島にお住まいの方、そのあたりの事情をお知らせいただければサイワイです。
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ところで、この島で見る濃密な森のほとんどが原生林だという。長い間、橋が架からなかったために乱開発から免れたのだろうとのこと。日本中どこにでもあるような、ゴルフ場だらけのリゾートにならなくてホントによかったと思う。

ということで、周防大島でのセンチメンタルジャーニーは終わった。大島商船のF先生、ご挨拶もせずに大島を去ってしまってスミマセン。その日は平日。ワタシが来たくらいのことで、学校の先生を呼び出すわけにも行かないと思い遠慮いたしました。このままアロハ、させていただきます。
なお、せっかくの被写体なのでトイカメラ風に撮影してみました。ちょっとやり過ぎたかな? 企画倒れを正直に認めつつ、レタッチせずに載せておきます。
# by west2723 | 2010-06-06 12:14 | ホクレア

周防大島〜その1

周防大島から広島へ曳航される〈ホクレア〉の上で、クルーのアトウッド・マカナニさん(通称マカさん)は、テレビ新広島のカメラに向かって興奮しながら語り続けていたという。語りながら、周防大島でお土産にいただいたみかんを、これまた絶え間なく食べ続けていた。
「いいか、オレの住むカフォラヴェ島には木なんて一本も生えていないんだ。それに較べて周防大島の豊かな森はどうだ。みんな、こんな森こそ大切にしなきゃいけないんだぞ……ところでオマエ、みかん食べるか? うまいぞぉ、このみかんは」

〈ホクレア〉の上では、たびたびナイノア船長から全員集合の号令がかかるけれど、マカさんはまったく気にも留めず語り続けていたという。そのインタビューは時間が長すぎて編集できず、番組では使えなかった。何とか他のカタチで見たいもんだけどね。
マカさんだけではない。横浜にゴールした後、何人かのクルーに「ミクロネシア〜日本を通じて最も印象に残った島」を聞いてみたところ、その答えはサタワル島でもヤップ島でもなく、周防大島と宮島がブッちぎりの一番人気だったのだ。

日本航海の最中、最も感動的シーンの予想された瀬戸内海レグの取材に、僕は行けなかった。あの時はホントにくやしくて、いつか絶対行こうと思っていた周防大島にようやく来ることができた。
しかも日付は5月23日。〈ホクレア〉が3年前、この島に着岸したその日に合わせてやって来たのだ。
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時は19世紀末、急速に拡大していたハワイの砂糖産業の労働力として、第一回官約移民が始まったのが1885年。当時、自然災害が続き、餓死者も出るほどに追い込まれていた周防大島からは、特に多くの人々が海を渡った。第一回の移民では大島出身者が全体の三分の一を占め、官約移民時代を通じて実に3900名もの人々がハワイに渡ったのだという。その当時、知恵も文化もありながら、故郷を離れなくてはならないほど貧しかった日本の人々。一方、土地を所有するという概念を持たなかったために、他国から搾取され続けたハワイの人々。この両者による文化の融合は、ここから始まった。
今でも島の中心部に行くと、時報として流れる音楽は『アロハ・オエ』なのだ。しかし、この島で聴くおなじみのメロディは、湘南あたりで聴くものとはまったく違う曲として響いてくる。
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〈ホクレア〉の停泊していた港へ行ってみると、ご覧の通りの静けさだった。しかし近寄ってみると、〈ホクレア〉が港に浮かぶ姿や、部材の擦れる乾いた音や、〈ホクレア〉そのもののサイズが手に取るように蘇ってくる。ナイノアさんはこのあたりをビーサンでジョギングしていたらしいけど、その姿も容易に想像できる。そう言えば藤井木工の大工さんは、この場でメインセイルを修理し、クルーたちの驚嘆を浴びた。ある時、一組の老夫婦が〈ホクレア〉に乗せて欲しいと訪ねてきた。一般の人の乗船は禁止されていたけれど、マカさんは快くお二人を案内した。するとご夫婦は、二人とも靴を脱ぎ、キレイに揃えて〈ホクレア〉に乗り、下りた後には丁寧にお辞儀をして去って行ったという。
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クルーの宿泊先となったスポーツ施設『グリーンステイ長浦』の会議室には、今も〈ホクレア〉の模型が展示され、廊下には日本航海のようすを撮った写真の数々が、パネルとなって展示されている。どうやらこの周防大島では、日本航海が島の歴史の一部として、すっかり定着しているようだ。ちなみにこの施設には日帰り温泉があり、KONISHIKI指導によるハワイアンレストランがあり、などなど、とても居心地のいい施設なのだ。大雨で中止になった3周年記念イベントも、ここで行われる予定だった。延期となり、次回予定は7月17日とのこと。残念だけど、僕はお邪魔できませんが。
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周防大島を去る日、午前中いっぱいは宮本常一資料館に浸りきった。彼は小説も残しており、その小説は原稿をまるごとカラーコピーして、綴じて販売されている。限定100部ということだけど、これは家宝になるな。タイトルは『三等郵便局員』。もったいなくて、まだ読んでいないんだけどね。
そして午後に『日本ハワイ移民資料館』へ。ここは移民としてサンフランシスコへ渡った島民の方が、帰国して建てた民家をそのまま利用したもの。成功して帰国した人々のライフスタイルが偲ばれる、建物自体がとても貴重なものだ。詳しくはサイトをご覧いただくとして、僕が何より強く印象を受けたのは、移住先で生まれ育つ子供たちへの母国語教育についてだった。学年別に丁寧に作られた国語教科書の数々から、海を渡った人たちの日本への思いが伝わってくる。僕はそのうちの一冊を手に取りながら、亡くなった〈マカリィ〉の元船長、クレイトン・バートルマンの言葉を思い出していた。
「日本は戦争に負けたけど、日本語までは失わなかった。これは本当にラッキーなことだったんだ」
(続く)
# by west2723 | 2010-06-05 00:56 | ホクレア

日本から来た人たちは決して偉そうにせず、ハワイアンと共に働いた

写真家のニック加藤さん、亡くなったタイガー・エスペリさん、そして僕の三人で、マウイ島の東端にあるハナの街まで小さな旅に出たことがある。周防大島の宿で本を読みながら、僕はふと、この旅のことを思い出していた。

あの時は宿も決めずにハナの街に入り、木造の建物が素敵な『ハセガワ・マーケット』に入って近所の宿を探し、ニックさんの提案で日系人の夫婦が経営する小さなB&Bに入ったのだった。70代と思しき初老のご夫婦で、すでに日系二世とのこと。その時ご主人は外出中だったものの、みんな時間は充分にあったので、奥さんの昔話をいろいろ聞くことができた。

まず驚いたことは、非常にきちんとした、明治時代を思わせるような日本式の挨拶で迎えてくれたことだ。僕はとても恐縮したけれど、彼らにとってはそれが日常なのだろうと思うことにして、平静を装っていた。おそらく、すでに亡くなったというご両親は、ハワイに渡ってくる前の明治時代の「躾」で、この女性を育てていたのだろう。つまり日系ハワイアンの古い世代は、明治時代の日本人そのままの立ち居振る舞いで、今のハワイを生きていることになる。日系ハワイアンのご老人に会うと、亡くなった祖母に会うような懐かしい気分になるのは、きっとそういう理由によるものなのだろう。

「この街に入る手前で、頂上に椰子の木が生えた島が見えたでしょう? あの椰子の木は、私の父が60年以上も前に植えたものなんですよ」
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翌朝、あの島を見に行こうと提案したのはタイガーだった。
「日本人は本当に多くのことをハワイに伝えてくれたんだ。ハワイアンを労働者として使いながら、自分たちだけが金持ちになって行くような他の国の連中とは、そこが違っていた。ハワイアンと一緒に働きながら、ハワイアンたちに、自然の中で生きるいろいろな知恵や技術を残してくれたんだ。あの椰子の木を見ておけよ。あの木は、そんな優しい日系人たちの心、そのものじゃないか」

なぜ日本人だけがネイティブのハワイアンに溶け込み、共に生き抜くことができたのか、僕には想像でしか語ることはできない。しかし客観的な事実として、共に「島」に住んでいるということには注目しておきたいと思う。お互いに海に囲まれ、島から逃げて行くことはできない。住民どうしが共に協調しながら、海と自然と向き合い、自然からの恵みを分け合いながら生きて行く以外にない。そんな感覚が、はるか南の島からカヌーに乗って移り住んだハワイアンのDNAと、日本列島に住む日本人のDNAの中に、共通して宿っていたのではないか。
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今、ハワイ独自の文化とされるものの中に、日本の文化とハワイの文化が融合して生まれたものはどのくらいあるのだろう? よく知られている通り、アロハシャツは、ハワイに渡って間もない日系の人が、和服の布地をハワイの風土に合わせて作り直したのが始まりだ。今では「弁当」も「豆腐」も、すっかりハワイのランチメニューに加わった。そして今回は、周防大島の古い木造家屋を眺めながら、映画になったホノカアや、ヒロの木造家屋を僕は思い出していた。あのような昔懐かしいハワイの町並みもまた、日本の木造建築をハワイに持ち込んでできたものではないか、と想像するのだ。ちなみにホノカアの街なみには、主に熊本出身の人々が住んでいたと聞いている。観客たちはスクリーンに映し出されるホノカアの街に、昔の日本を見ているのかもしれない。

僕も含め、ハワイに憧れて、ハワイの音楽や風俗を学ぶ人は非常に多い。だったら一度、日系ハワイアンの歴史を辿ってみてはどうだろう? 日本人どうしが、日本にいながら「アロハ!」なんて慣れない挨拶を交わすよりも、フラもハワイアンキルトもアウトリガーカヌーもスラックキーギターも何もかも、より深く理解できるに違いない。
これは3年前、〈ホクレア〉と関わりながら、いつも感じていたことだ。ハワイがわかれば日本がわかる。そして日本がわからなければ、決してハワイを知ることはできない。僕は今でもそう思っている。
# by west2723 | 2010-06-02 20:36 | 陸での話

沖家室(おきかむろ)島〜天国に少し近い島

〈ホクレア〉を率いる伝統航海術師、ナイノア・トンプソンを最初に海に連れ出したのは、カワノ・ヨシオという日系移民の牛乳配達員だった。
毎朝トンプソン家に牛乳を届けていたカワノ氏は、多忙だった両親の代わりに、たびたびナイノア少年を海に連れ出し、船の漕ぎ方や魚釣りを始めとする、海での過ごし方、海との接し方を教えた。さらに少年は、カワノ氏の生活を眺めながら、自然とうまく調和する日系人たちのライフスタイルにも強い感銘を受けて行ったと言う。
「風通しのいい日本家屋、自然の色彩に逆らわない調度品のひとつひとつ、枕のカタチひとつにさえも、僕はいつも驚いていた。そんなヨシの家に遊びに行くことが、僕にとっての大きな楽しみになっていたし、その後の僕の人生に大きな影響を与えたことは間違いないと思う」

いよいよ〈ホクレア〉が日本にやって来ることになり、当然のようにナイノアはヨシの故郷を訪ねたいと思うようになる。しかし困ったことに、カワノ氏のご先祖の出身地が誰にもわからなかったのだ。どうやら山口県の出身らしいということまではわかっていたものの、広い山口県のどこなのか、それが〈ホクレア〉を巡る最大の謎となっていた。周防大島にあるハワイ移民資料館の名簿の中にも、その名前は無い。
しかし、ハワイに多くの日系移民を輩出した周防大島の人たちが、島の誇りにかけて調査を開始。膨大な資料の中から、牛乳配達員、カワノ・ヨシオの名前を発見したのは、〈ホクレア〉がすでにハワイを出港した後だった。その出身地は、周防大島の南に接する小さい島、沖家室島だという。
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前日とは打って変わって快晴となった周防大島を、テレビ新広島の「サンフレッチェ兼ハワイ担当」カメラマン氏が案内してくれた。大島から沖家室に至る細い道は広葉樹林に包まれており、まるでマウイのハナハイウエイのようだ。島では完成が悲願だったという橋を渡ると、「あれまぁ、こんなに小さいんだ!」と言わずにいられないほど小さな島だった。写真の右奥は周防大島。沖家室の集落は、写真に写っている場所がすべてだ。
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このあたりの海は、瀬戸内海でも屈指の鯛の漁場なのだという。釣り方は非常にユニークで、竿を使わずに、家室針と呼ばれる独特の釣り針を糸につけ、糸を直接手で持って一本釣り。この針と、家室針を作る道具が宮本常一資料館にまるで過去の骨董品のように展示されている。しかし、これを作る松本老人は今なおご健在なのだ。今回お会いした時にも背筋は伸び、肌のツヤも良くて非常にお元気だった。工房にお邪魔すると、資料館にあるのと同じ工具が今なお現役で使われていた。中には電気機器を修理するような機械も積まれていたが「これはフネを修理する時に使うんよ。まぁ、このあたりのフネのことはぁ、何でもわかるけぇのう」
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「ハワイの船の船長さんの家が火事になったじゃろ? で、あの後、誰かがここを訪ねて来たんよ。あの時いただいた針が火事で焼けてしもうたんで、また新しいの作ってくれんか言うての。で作って、木の箱に入れて差し上げたんだが、そのままさっぱり返事がないんじゃ。どうなったんかのう。きちんと届いたかどうかわからんのですよ」
誰がここに来て、ナイノアにはどのように届けたのかはわからないけど、届けた人はキチンと松本さんに報告しておかないと、それは〈ホクレア〉の恥になると思うよ。
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港の堤防は、自然石を積んだもので、これを見ることのできる港は瀬戸内でも数少ないという。家室針といい、この堤防といい、島全体がまるで文化財のようだ。集落には商店が無く、日用品はクルマが巡回しながら売りに来るという方式。目の前の海からは充分な海の恵み。平和に暮らして行く上での過不足は無い。島にはご老人ばかりだけど、誰もが満ち足りた表情を浮かべている。年金制度がうまく機能している、と言ってしまえばそれまでだけど、東京あたりで孤独に暮らす老人たちに較べて、この違いはいったいどこから来るんだろう、と、考えずにはいられない島の風景だった。
# by west2723 | 2010-06-01 12:53 | 海での話

周防大島に到着

雨が小降りなうちにしまなみ海道を抜けてしまおうと思い、海を眺める余裕も無く一気に本州へ。しかし、尾道に入った頃には再び大雨となった。もはや山陽自動車道はハイドロプレーン状態。幸い交通量が少ないから自分のペースで走れるものの、それでもこっちのクルマってこんな時にもライトをつけずに突然現れるから、危なっかしいったらありゃしない。

それにしても広島県って名前の通り広いねぇ。豪雨の中、走っても走っても広島県なのだ。あきらめて途中のSAで休んでいても広島県なのだ。それでも高知を出てからほぼ5時間。どうにか山口県に入り、最初のインターチェンジを降りて周防大島へと向かうことができた。本州と大島を繋ぐ橋を渡った頃には緑もグッと濃くなった印象。このあたりの山の高さと、谷にできた田んぼの組み合わせが、ふとハワイのアフプアア地形を思い起こさせた。自給自足を可能にする、山、川、谷、そして海から成り立つ地形。

宮本常一資料館に行ってみたら閉館間際だったので後日に回す。道の駅で軽い夜食を購入。宿に着く頃には薄暗くなっていたけど、まだ雨は降り続いていた。何を隠そう3年前のこの日に〈ホクレア〉が周防大島にやって来たのだ。島では記念のイベントもあるという話だった。しかし残念ながらこの雨で中止という報せ。その日は宿に引きこもることに決め、本を読んでいるうちに眠ってしまった。
# by west2723 | 2010-06-01 00:58 | 海での話

Into the Purple Valley

去年の秋、出版社からの脱藩者となった僕としては、ぜひとも龍馬の脱藩ルートを辿って土佐を脱出してみたかった。しかし、前の晩から四国全域が豪雨に見舞われ、とても山道を走れる状態ではない。ということで脱藩ルートは次回に譲って、高知市内からおとなしく高速道路に乗った。週末だから、土佐から長州まで高速割引料金で行ける。がしかし、坂本龍馬が望んだのは果たしてこういうヨノナカだったのかどうか。

にしても四国の山は険しい。高知から北へ向かう高速道路の半分はトンネルなんじゃないだろうか? 道の両側を山が包み込むような感じ。時折スコールのような雨が襲いかかる。僕のアタマの中では、昨日の夜以来、ペギー葉山さんの(この人、今の若いモンたちは知らないんだろうなぁ)「南ぁん国ぅ〜土ぉ〜佐ぁ〜を、後にぃ〜しぃ〜て〜」という曲が鳴りっぱなしなんだけど、一方で、ビジュアル的にはライ・クーダーの『Into the Purple Valley』のジャケ写が浮かんでは消えていた。そのジャケ写とはこんな感じ。ただし、隣に女の子は座っていなかったわけだが。
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高速道路が谷を越えるとき、ちらりと昔の峠道が見える。この険しい道を、今のようなアウトドア装備も無く、木綿の服とワラジだけを頼りに、追われる身として逃げ出すのはホントに命がけだったはずだ。無事愛媛県に出るまで、いったい何日くらいかかったのだろう。試しに今、トレイルランニングの装備に一日分の食事を用意して同じルートを走ったとしても、これほど深い山には何が潜んでいるかわからない。かなり危険だと思う。

峠を越え、愛媛県側に入ると、雨は幾分小降りになった。ところで「しまなみ海道」へ向かうには、いったん高速道路を降りなくてはならないんだね。知らなかった。てことは、高速料金は2000円になるということか。去年の暮れにも走ったしまなみ海道、アロハ・アゲイン。この道は自転車でも渡れるんだけど、あいにくこの天気では試す気にはなれない。往復でちょうど100マイルくらいのコースではないだろうか? ここもまた、次の機会に来よう。いずれにしても、四国という島は2日や3日で回れるはずもない。次回は秋頃、2週間くらい空けて、じっくり来ないといけないな。
# by west2723 | 2010-05-31 22:33 | 陸での話

桂浜

徳島県池田市を出たのが朝の9時頃。「龍馬ブーム」の真っただ中、週末の高知に向かうのは危険なことかもしれないけれど、恐いもの見たさも手伝って、カーナビを桂浜にセットしてみた。大歩危渓谷を眺めながら、のんびり走って11時には桂浜に到着。この時間にはブームはそれほど加熱していなくて、駐車場にもすんなり入れたし、観光客の姿もまばらだった。海の水は青く、波は穏やかで高さは脛、トロめのブレイクといったところ。今、ここにカヌーがあればなぁ、と思わずにいられない光景だった。
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僕が司馬遼太郎の『龍馬がゆく』を読んだのは学生の頃だった。そして誰もが同じ感想を持つように、あの人物の先を見通す能力、発想のオリジナリティ、平和裏にモノごとを解決する能力、ケンカの強さ、オトコとしての大きさ、などなどに、強く憧れたものだった。一方で、坂本龍馬に憧れるあまり人生を狂わせてしまったヤツにも多く出会った。龍馬を語るサークルの先輩や会社の上司ほど鬱陶しい者はなかった。坂本龍馬のような人物を目指してはいけないのだ。あの人物は、歴史上に唯一無二だからいいのだ。そもそも、龍馬自身が誰も進んだことの無い道に分け入ったのだから、憧れるからにはマネをしても空しいばかり。さらに険しいオリジナルの道を進まなくてはいけない。
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司馬遼太郎の龍馬では、おしまいの方に龍馬がお忍びで土佐に帰り、船からこっそり桂浜に上陸するシーンがある。僕はなぜかあの場面が好きだった。まさかその浜に、自分の銅像が立つなんて、本人は想像さえしていなかっただろう。それにしても、おなじみの像はデカかったなぁ。5月いっぱいは像の隣に写真のような台が組まれていて、真横から龍馬像を撮影することができる。1回100円。そのバカバカしさがうれしくて、ワイドレンズを装填して上ってみたら、こんな写真が撮れました。
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まだ電気も無かった時代、見よう見まねの航海術を頼りに、木造の蒸気船で江戸、神戸、瀬戸内海、関門海峡、長崎へと出て行く行動力と勇気は、冒険の足りない僕にはとても想像がつかない。以降、幕末から鉄道網が完成する明治半ば頃までの間、日本列島では船が最も速く、重要な交通手段となる。きっと、僕がフェリーでやってきたあの航路を、覚えたての航海術で下級武士たちが行き来していたのだ。やはり、日本列島に住む限り、海を忘れたら道を見失ってしまう。これからでも遅くはないから、もっと海に出なきゃイカンね。
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ところで話は変わりますが、高知の人たちってウワサ通り、ホントに酒飲むよね。この写真の賑わいは、まだ夕方の5時ちょっと過ぎ。ちなみに4時頃からこんな感じでした。もっともここは高知市の中心部にある『ひろめ市場』という大きな屋台村だから観光客も多かっただろうけど、酒飲みにはタマランですね。僕はドラマですっかりおなじみとなったナマの土佐弁が聞きたくて、あちこちのテーブルで聞き耳を立てていたんだけど、それほど「……ぜよ」は聞けなかった。「……ろう」はけっこう聞けた。なんにしても高知の街、けっこう賑やかでラテンでした。この街はホントに気に入った。ぜひまた近いうちに、ゆっくり時間をかけて行ってみたいと思う。
# by west2723 | 2010-05-31 20:38 | 陸での話

吉野川

午後1時30分頃、徳島に上陸。翌日の夜に高知で友人に会う予定があったけれど、それまでの1泊2日はフリーだ。徳島から海沿いに高知に行けば、県境のあたりに村を挙げて町村合併を拒んだ「日本でいちばん美しい村」連合の馬路村がある。そこにはぜひ行っておきたいと思いながらも、吉野川という川も非常に気になっていた。ここは楽園写真家と呼ばれる三好和義さんの故郷で、タヒチの写真を撮り集めている頃から吉野川にも通い、やがて写真集を出版した。自然の恵みを巧みに利用しながら生きる故郷の人々を、愛情ある視線で追った写真集は今でも印象に残っている。ということで、当時新進の写真家として絶頂期を迎えていた三好氏がこだわった故郷に敬意を払い、まずは吉野川沿いに上流まで遡り、そのあたりで宿を決めることにした。無ければどこかの道の駅で車中泊しちゃえばいいのだ。
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高速道路は使わずに、下の国道沿いに進む。新緑のこの季節、日本国内を旅行するには最高の季節じゃないかと思う。とは言え国道沿いは日本国内どこにでもあるような建物ばかりでツマラナイけれど、時折姿を見せる吉野川のお陰で何度も脇見運転をしてしまう。下流域も過度な護岸はされておらず、流域には広大な農地が広がる。山がちな、狭い四国の中にあって、吉野川の周りだけは空が広いという印象。明治の頃から何も変わっていないような田園風景を走り、やがて中流域の脇町に道の駅があったのでクルマを停めた。吉野川の土手を上ってみると、遠くに沈下橋が見えた。沈下橋とは、洪水になっても流されないように水の抵抗をきわめて小さく作る橋のことで、橋桁が低く、欄干は無く、幅も狭い。このような橋は四万十川でよく見たけれど、吉野川にもあるとは知らなかった。この橋はクルマも通れるけれど、幅は3~4mくらい、手すりも欄干も無いので、歩いて渡るのも怖いよ。
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かなり上流の池田市に来ると川はこんな感じ。池田と言えば高校野球で有名だった池田高校のある街だな。通り沿いに一軒、なぜかビジネスホテルがあったので覗いてみたら宿泊OKだった。通りの両側は険しい山がそびえ、午後17時には日が沈んでしまった。池田高校は打撃が強く、やまびこ打線なんて呼ばれていたけれど、国道沿いはそんなにのどかな雰囲気ではなかったな。とにかく絶え間なくトラックやクルマが通るので、やまびこなんて聞こえてくるはずもないのだった。
# by west2723 | 2010-05-31 18:13 | 陸での話

海の道、入門編

一日一便のフェリーのためにこの施設。これがもしも霞ヶ関の公益法人によって運営されていたら、きっと事業仕分けの対象になるだろう。そのくらいもったいない施設なんだけど、今回はそういう話ではない。何より僕のココロを動かしたのは、こんな都心から、自宅からクルマで5分ほどの近所から、船で旅に出ることができる、ということだった。

続きはコチラ
# by west2723 | 2010-05-31 13:10 | 陸での話

東京・有明にフェリーターミナルがある

コトの起こりは東京・有明にフェリーターミナルを発見したことだった。今月のとある暖かい一日、自転車で湾岸エリアを流していた時に「→東京フェリーターミナル」という道路標示を見つけたのだ。もちろん、以前からこの表示はあったし見たこともあったんだろうけど、「見る」ことと「興味を持つ」こととは全く意味が違う。まとにかく、この時に初めて興味を持ったのだった。

フェリーターミナルというものは、どの街に行ってもたいてい殺風景で寂しい工場地帯の隅っこにある。走っているクルマといえばトラックばかりだし、こんなところには普通、用もないのに行こうとは思わないものだ。それがまた、人々からフェリーを遠ざける理由になっている。空港だったら見学者もいるし、飛行機を見ながら食事をすることもできるけど。

ターミナルビルは意外に立派な建物だった。ヒマな地方空港ビルを少し小さくしたようなオモムキ。ただし、中に入っても誰〜れもいないのだ。使えるのは自販機とトイレくらい。ちょっと見には廃業してしまったか、あるいは週に一便くらいしか船が出ていないんじゃないかと思えるほどの寂しさだ。がしかし、タイムテーブルを見ていたら毎日一便出ていることがわかった。行き先は徳島、そして北九州。毎朝5時30分に徳島からの船が入り、毎晩19時に徳島行きの船が出る。不定期ながら苫小牧行きの船もあるらしいし、少し離れた埠頭からは沖縄行きのフェリーも出ていることがわかった。
# by west2723 | 2010-05-30 18:05 | 陸での話

日めくりカレンダー

このところTwitterにうつつを抜かしていると思われているようですが、一日に一回、欠かさずここにも巡回してますよ。ところで日めくりカレンダー、今になってとんだ間違いに気づき、イチからやり直してます。早くしなくてはいけない。もう〈ホクレア〉は熊本に着いちゃったよ。

ところで西村一広さんのブログが、「熊本の打瀬船が〈ホクレア〉と同じルートを辿って東京湾まで向かう」という情報を伝えています。途中、広島県・鞆の浦で何らかのイベントがあるかも、とのことですが、僕は行けるかどうか、今は微妙なところ。
# by west2723 | 2010-05-13 17:20 | ホクレア