カテゴリ:雑誌作り( 16 )

情報の地産地消

『美少女図鑑』というフリーマガジンがある。これはもともと新潟県在住のスタッフにより新潟県限定で発行されていた雑誌で、創刊当初は発行するたびに間もなく品切れになるという状態が続いたという。今では東京を除くほとんどの道府県で編集され、それぞれの地元限定で発行されている。内容的には特に驚くようなことのない、どこにでもあるような10代女性向けのファッション誌なんだけど、気になる理由は徹底的に地元に情報を求めるその編集スタイルにある。

続きを読むとポイント2倍!(ウソです)
by west2723 | 2009-12-31 19:05 | 雑誌作り

朝に書く文章

多くの雑誌に日記を寄稿している有名な写真家が、「日記を書くんだったら朝だぞ」と教えてくれたことを思い出した。それも起きてすぐに、朝ご飯を食べる前に数行でいいから書くといいんだ、という話だった。なぜなら、まだ前日の記憶が残っているし、かと言って印象に残ったシーンしか思い出さないから、文章が簡潔にまとまるんだと言う。前日の記憶を辿るという作業は、単なる「反省」よりも人を建設的な気分にさせるし、何よりも「ボケ防止」に役立つように思う。

出版の仕事は夜型で徹夜続き、という印象がまだまだ一般的なようだけど、実はもう少し健全です。仕事が深夜に及ぶのは入稿の時くらい。今どき夜型の編集部なんてものがあっても、そこからはたいした雑誌など生まれないと思う。また、優れた仕事を見せてくれるフリーランスのライターさんは、ほぼ例外無く、午前中から原稿書きをしているものです。

で、さっそく今朝、こうしてコンピュータの前に座ってみたんだけど、何〜んにも思い出せないんだよぅ。オレの日常なんて、そんなもんだったのか、と、少し寂しくなったところで、今日も快晴。とにかく出かけます。今日は銀行に行ったりお役所に行ったり、そんな事務手続きがいろいろ溜まっていて、そろそろ本気で片付けないとヤヴァイのです。
by west2723 | 2009-09-25 09:32 | 雑誌作り

August

雨の多かった2009年の8月は、僕にとって会社を辞めるための1ヶ月となりました。
そうです。何を隠そう、20と数年通ったあの出版社を辞めて、晴れてフリーランスになることができました。まずはその報告をしておきたいと思います。

辞めたとは言ってもケンカ別れしたわけでもクビになったわけでもなく、今では多くの会社が採用するようになった「早期退職優遇制度」というものを利用した次第。思い立ったのは今年の5月で、それ以降、いろいろな可能性を探ってみて、まさに今が頃合いだと思ったのが7月でした。優遇だから会社も好条件で送り出してくれるし、仲の良かった編集者からはさっそく仕事の誘いは来るし、非常にいい感じで辞めることができそうです。このまま何もせずにのんびりしていればリタイアだし、新たな仕事を始めれば独立という道に分かれるところ。僕は当面、後者の道を選ぶことにします。

さあてと、どこから手をつけようかな、なんて考えてみるのはとても楽しいものですが、まずは最初の1ヶ月、体調を整えることから始めるつもりです。ダイエット&心肺機能の向上、というわけですね。このところ、広告という、まことに不健康きわまりない業界に関わることが多かったので、もとのコンディションを取り戻さなくてはなりませぬ。

しばらくはシングルスピードの、おバカなMTBが活躍しそうです。《Surly》製27インチのクロモリフレームで、サスもディレイラーもハナっからつける気ナッシング。パーツはすべてBMX用でまとめ、変速なんてメンドーなことはしないという心意気で乗るわけです。パーツ好きのマニアたちは誰もが絶句するけれど、自転車なんてこんなもんでいいのではないでしょうか? これでもけっこう上れるので、都内くらいは充分にカバーできるし、いいトレーニングにもなります。

そんなこんなで、残務処理と有給休暇消化と新たな仕事の構想を重ねるうちに8月も終わろうとしています。コンディションを整えた後に、どのような雑誌、出版物を出そうとしているのかは、おそらく皆さんが想像している通り。しかし、そっちの方は慌てずに、風向きを見ながら、ゆっくり始めます。経過はこのブログでも報告できると思いますので、今後ともシッタ激励、よろしくお願いしますね。
by west2723 | 2009-08-30 00:18 | 雑誌作り

Somebody to Love

このところ、長めの企画書を書くことが多くなっている。そういう時はたいてい新雑誌の企画だったり、雑誌以外のメディアを加えた(最近はこういうことをクロスメディアなんて呼ぶようだけど、このような広告業界発の言葉にはなぜか違和感を覚える)プロモーションだったりするんだけど、今回はちょっとオモムキが違う。何と言いますか、具体的に「何かを作ろう」という企画ではなくて、カッコつけて言えば「近未来への提言」風な話で、このような近未来を迎えるために雑誌はどのような役割を果たすのか、というような内容です。

思えば「頼まれ仕事」の企画書は週に3本ほど書いている。だから慣れていると言えば慣れている。手抜きはしないけれど仕事は速いつもり。でもね、このような「頼まれ仕事ではない、自分発の」企画書にはいつまで経っても慣れない。楽しい作業ではあるけれど、時間もかかるし、取りかかっている間は他の「頼まれ仕事」には気合が入らなくなる。困ったもんです。

でもまあ、何とか仕上がりました。書いている間、ずっと60年代ベイエリアの音楽を流しっぱなしにしていました。集中したい時にはなぜかベイエリアを選んでしまいます。これは幼少期の体験と言うか、子どもの頃に「カッコいいなぁ」と思ったものは未だにカッコ良く思えるもので、カッコ良いことをやりたい時には、自分の原点に還ってみたくなるということなのでしょう。サンフランシスコという街には、アメリカの他の街には無い独立した文化というか、群れないプライドのようなものを感じて、非常に心地いい。僕が子どもの頃を過ごした横浜の街に、どこか共通した雰囲気もあるし。

そんなわけで、YouTubeで、たとえばJefferson Airplaneと入れてみてください。この数日間、僕が浸っていた映像が流れています。「これを見ながら集中しているオマエって、おかしいんじゃない?」と思われるかもしれない。あるいは「昭和の遺物」なのかも。でもね、お陰で次なる展開に自信が持てました。幼少時に形成された理想は、オトナになった今でも大きなエネルギーを与えてくれます。
またしかに、今見ると笑っちゃう場面も多いんだけどね。
それにしても、Jefferson Airplaneの女性ヴォーカリスト、グレース・スリックって変わっちゃったなぁ。かつてはこの上なくカッコいいお姉さんだったけど、今では細木数子さんのような貫禄です。

『Somebody to Love』はこの演奏をお勧めしておきましょう。これはグレース・スリックがジェファーソンに加入する前にいたバンドですが、その頃から『Somebody to Love』を演奏していたんですね。この演奏、まるでアマチュアのように荒っぽいけど、そこに当時のベイエリアのようすが垣間見えるという仕掛け。そんな中、彼女のヴォーカルが際立ってます。動画ではないので念のため。
by west2723 | 2009-06-26 04:14 | 雑誌作り

雑誌『Coyote』5月号 特集「海は学校」

サブタイトルは「いまだ知られざる水の島、ハワイへ」。特集は巻頭からいきなり内野加奈子さんの写真で始まり、以降、「クリムポ〜ハワイに伝わる創世詞」(木版画/名嘉睦稔、訳・構成/内野加奈子)、「初めて海で泳ぐ日」(写真・文/内野加奈子)、「ナイノア・トンプソンが教えてくれた、天群る星の読み方」(写真・文/内野加奈子)、「水族館で海の不思議体験!」(写真・文/内野加奈子)と続きます。それ以降はサーフィンの話で組まれていて、後半のページはどことなく〈パタゴニア〉のカタログのようなオモムキになってしまうけど、読み物としては「さすが」なできばえです。

少なくとも巻頭の内野さん大会、特に「クリムポ」の14ページと、続く解説はレイアウトが粗っぽいながらも圧巻。そうか、内野さんはこれからこっちにも向かうのかな、なんて、勝手にワクワクしてしまいました。そして特集の終盤には佐久間洋之介さんが海小屋と共に登場するという、とても見逃すことのできない内容です。

僕はかつて、この雑誌に掲載される著作物の集め方や扱われ方について、かなり不快な思いをさせられたことがある。だからこれまで、この雑誌を決して人には勧めたことはなかったのだ。しかし、ここに登場するビジュアル、写真、文章は、そんな「出版界の事情」などとは無縁の、純粋な動機から作られているに違いない。この内容を前に、あまりケチなことを言うのはやめよう、ということで、他の出版社からも、このような雑誌が数多く作られることを願いながら紹介しておきます。
by west2723 | 2009-04-14 04:50 | 雑誌作り

雑誌の神さま6〜1993年〜ビル・ゲイツに関する、ちょっといい話

今では幻となったPDA《Newton》の発表をボストンで見た後、いよいよアメリカのハイテク文化発祥の地、サンフランシスコのベイエリアに向かう。ベイエリアとはサンフランシスコ市街を中心に、北はゴールデンゲートブリッジの対岸にあるミルバレーや、サンフランシスコ対岸のバークレー、南はサンノゼ、そしてアップル本社のあるクパチーノあたりまでを指すエリア。ここは音楽好きにもおなじみの土地で、ドアーズ、ジェファーソン・エアプレイン、バッファロー・スプリングフィールドというような「サイケ」な名前がすらすら出てくる。そう言えばザ・バンドの解散コンサート、ザ・ラストワルツが撮影されたのもサンフランシスコのウインターランドだったっけな、なんて思い出していた。

ここでの取材ではいきなり刺激的な人たちに会うことになる。バークレイ・マッキントッシュ・ユーザーグループ(BMUG)だ。この頃、パーソナルコンピュータというものは壊れるもの。それを治せて一人前のユーザーだった。なおかつオリジナルなハイパーカードのスタックを自慢したり、面白いフリーウエアを発見することも多かった。そこでユーザーは地方ごとにユーザーグループを作り、情報交換を行ったりしていたものだ。すでに日本にもいくつかのユーザーグループはあったようだけど、世界で最も大きい組織がこのバークレイなのだという。そのBMUGが月に1回開催するという「集会」に参加してみたのだ。メールには「UCバークレイの大教室で会いましょう」とあった。

何でまた、大学の大教室なんかでやるんだろう、という疑問は会場に着いたとたんに氷解した。とにかく凄い人数なのだ。顔ぶれは老若男女、ホントにお年寄りもいるし子ども連れの夫婦もいる。もっとオタクな集会を予想していたんだけど、顔ぶれとしては休日の映画館のようだった。教室の演壇には先日のボストンで《Newton》を見て来たという人物が報告を行い、それに対する意見や質問はもちろん、時にはヤジのようなものも飛ぶ。何だかこの雰囲気、いつかリバイバル上映で観た映画『いちご白書』みたいだなぁ、と思った。司会はビルと呼ばれるワカモノが担当していたんだけど、彼が何かを言うたびに「くたばれビル!」というヤジが飛び、会場がドッと湧く。

「あのビルってヤツ、よっぽど嫌われてるの? それとも人気者なの?」
何となく、僕は主催者に質問してみた。そして返って来た答えに僕は唖然とする。
「この集会には、ビル・ゲイツがたびたびゲストとして呼ばれるんだけど、司会のビルはそのための要員なんだ。こっちの司会にもビルを立てて、思いっきりビルにヤジを飛ばす。気持ちいいぜ!」
その頃、僕でもビル・ゲイツの名前くらいは知っていた。あの《MS-DOS》を作った人物だ。すでに多くの会社では《MS-DOS》のマシンは使われていたけれど、あんな面倒なものを触りたくないから誰も自らコンピュータを覚えようとは思わなかった。今でもマックユーザーは自分のコンピュータをマックと呼び、他のマシンをPCなんて呼んでいるけれど、それはこの頃の名残なんだろうと思う。

にしても、あのビル・ゲイツがわざわざマックユーザーの集会に出向いて来て、ヤジの応酬を楽しんでいたなんて、まったく想像もしていなかった。 「引っ込め、ビル!」「ビル! お前の話はツマラン!」というようなヤジを笑いながら受け止め、再びビル・ゲイツがマック右翼たちに語りかける。ビル・ゲイツって、けっこう男らしいじゃん。どんな内容だったのかを細かく聞く時間が無くて残念だったけど、あの頃、パーソナルコンピュータ黎明期のエネルギーは、そのような面と向かった議論、というよりもコミュニケーションの中から作り上げられていたのだ。もう今さら、日本に帰ってマックとドスのどっちがエラいか、なんて論争することすらバカバカしくなってきた。

それから2年後、あのビル・ゲイツが全世界に向けて画期的なオペレーティング・システムを発表した。《Windows95》と名付けられたそのOSは、言うまでもなくマックのパクリだった。パクリの分際で、このOSがパーソナルコンピュータの未来を変える! だなどとよく言ったもんだ。しかし、あの集会を見てしまった以上、いいものはみんなで共有すればいいんじゃないか、とも思った。今後、パーソナルコンピュータのOSは、このようなインターフェイスを基本に開発されて行けばいいだけの話だ。とは言え、ビル・ゲイツが1から作り上げる「使いやすい」OSを見たかったけど。

ただし、許せなかったのは《Windows》というネーミングだよなぁ。すでにマックの世界では、フォルダをクリックして現れる四角い窓のことをWindowと呼んでいたわけだし、そこまでパクってはイカンのではないか。ここはもう少し頑張って、ビル・ゲイツのタマシイをOSの名前として表現してほしかった。「マイコンピュータ」という言い方もアカ抜けないよな。アイコンだっていつまでたってもダサくて、クリックする気にもなれない。ということで、15年前のあの集会に戻れるならば、「ビル、オマエって商売こそ天才かもしれないけど、ネーミングのセンスはシロート以下だね」とヤジってみたい。もしかすると、その一言がコンピュータの歴史を変えているかもしれない、なんてね。
by west2723 | 2008-12-17 21:00 | 雑誌作り

雑誌の神さま5〜2008年〜大統領選

今年行われたアメリカの大統領選をニュースで眺めながら、「オマエら、なぜ選挙にこれほどの演出が必要なんだ?」と思い続けていた。両陣営とも同様に、広い会場を借り、印刷されたプラカードを配り、大量の風船が舞い。大変なカネが使われていることは誰の目にも明らかだ。アメリカで「カネのかからない選挙」という公約は通用しないのだろうか。さらに印象的なことは、名も無い聴衆のひとりひとりが候補者の名前を連呼しながら、完全に陶酔し切っているということだった。彼らひとりひとり、家に帰ればいつもの生活が待っているだけだというのに、なぜロックスターのような遠い存在の候補者にあれほど夢中になれるのだろう?

一方で、あのような人たちをテレビで観ながら冷笑しているだけでは卑怯だよな、とも思った。ただの冷笑は何もしていないのと同じことだ。何もしないよりも、現場にいて、現場の空気に触れることの方がはるかに価値がある。いずれ公約を反古にされた時、あの空気に触れた人ほど抗議にも気合いが入るというものだ。プロテストするにも、一本スジが通る。

という一連の大統領選を眺めながら、僕はなぜかハイパーカードに夢中になっていたアメリカ人たちのことを思い出した。なぜそんなことに夢中になれるの? と思わせてくれる人たち。両者の共通点を言葉にするのは難しいけど、あえて言えば「社会に参加している実感」とでも言うのだろうか。コンピュータがなぜ社会参加に繋がるのかと言えば、彼らは常にそれぞれの立場から「この先にはどのような社会が待っているのか」をイメージしていたからだ。

その先には「情報ハイウエイ」が待っていた。今ではインターネットへと呼ばれるようになったこのハイウエイは、日本では未だ単なる情報インフラ程度の扱われ方に過ぎない。しかし彼らアメリカのモノ好きたちは、その時すでに、これが社会との関わり方を変える道具であることを妄想していた。アメリカ人って、常に社会の変化に関わりたいという欲望を抱えているのかもしれない。

バラク・オバマが登場する以前から、アメリカ人は「Change」という言葉が好きだったように思う。この取材の時にも「これからはコンピュータが世の中を変える」という言葉を1日に1回は聞いたもんだった。そのあたり鈍感な僕は、な〜ぜコンピュータと世の中の変化が結びつくのか、さっぱりわからなかった。ま、政治の世界に限って言えば、アメリカ人以外の目には「Changeのつもりが相変わらず同じことを繰り返している」ように見えてしまうんだけどね。ということで、次回から再び昔話に戻ります。(続く)
by west2723 | 2008-12-17 01:49 | 雑誌作り

雑誌の神さま4〜1993年〜ハイパーカード

ボストンに到着してしまえば、あとは予定表に従って移動して行くだけだ。1日あたり3〜4件の取材をこなす。その多くが病院かグラフィックデザイナーの自宅だった。
「このハイパーカードってカルテを作るのにちょうどいいんだよな」ということで、お医者さんの間には急速にマックという名のおもちゃのようなコンピュータが流行り始めていた。

ハイパーカードとは当時のマックを買うとついてきたオマケのアプリケーションで、あえて言えばデータベースのようなもの。ただし、最初は真っ白な白紙状態で、そこにユーザーが文字を入れたり写真を貼ったり音を入れたりしながら、自分専用のソフトに育てて行くというオモムキのソフトだった。ひとつの画面に写真や音が混在しているなんて今でこそ当たり前のことだけど、この頃、ほんの15年前にはもの凄いことだった。カッコいいことでもあった。そんなことがマウスひとつでできてしまうことに、なぜあれほど驚いたか、今では誰にも想像できないかもしれない。

「僕はコンピュータの専門家ではないけれど、試してみる価値はあると思ったんだ」
ということで、そのお医者さんはカルテをデータベース化し、病院内のLANに乗せた。日本もアメリカもお医者さんの忙しさは変わらないと思うけど、こんな作業をまるでおもちゃのようなコンピュータでやろうとするお医者さんなんて、あの頃の日本にいたのだろうか? 

アメリカにはこのような「いい意味での単なるモノ好き」が多いんだなぁ、と、その時に改めて思ったもんだった。その後に出会った学校の先生もミュージシャンも自転車選手も、みんな、今となってはプリミティブ極まりないハイパーカードと格闘していた。そして、コンピュータの専門家でも何でもない彼らはどうにか自分なりのソフトを作り上げ、悦に入るでもなく、まるで住所録でも取り出すように普通に使いこなしていた。

これを日本でやろうとすると「オタク」と呼ばれてしまうんだろう。この違いはいったいどこから来るのだろう。日本には守るべき文化が多い。しかし、文化を創ることは苦手なのかもしれない、と思い始めた。変化を好まず、変化を受け入れることが苦手。新しいものをシリアスに考えることはできても面白がることができない。独自の道を拓くことができない。世界に誇るべき日本の文化は、あくまでも熱心な一部の人がいたからこそ作られただけで、僕を含める多くの日本人にとって、文化とは誰かの後を追うことでのみ享受されてきたに過ぎないようだ。

あの頃、多くの日本人がマックをただのワープロとしてしか使えなかったように、コンピュータを巡る環境がこれほど充実した今でも、インターネットと自分との関係、ナマの社会と自分との関係、地球環境と自分との関係……何もかも少しも変わっていないように思えてしまうのだ。(続く)
by west2723 | 2008-11-25 02:14 | 雑誌作り

雑誌の神さま3〜1993年〜初体験、"パソコン通信"によるアポ取り

全米の際立つマックユーザーを取材したい。なんて大見得を切ってしまったけれど、取材は2ヶ月後にスタートさせなくてはならない。いったいどうやって相手を探せばいいのだろう。まとにかく、当時のMacにはユーザー同士がパソコン通信できるシステムが用意されていたので、拙い英語でまだ見ぬ相手に呼びかけてみたのだった。
「こんどの8月、ジャパンのマガジンがアメリカに行きます。目的は、あなたがMacをどのように使っているのかを見せてもらうためです。上旬はボストンに、中旬はサンフランシスコに、下旬はロサンゼルスにいますので、時間の合う方は連絡ください」

まあ、5〜6件くらい引っかかってくれれば後はどうにかなるかな。なんて思っていたんだけど、それはとんでもない誤算だった。翌日から1日100通を超えるメールが舞い込み始めたのだ。これでは取材相手を絞るだけでも2ヶ月経ってしまう。そして何より、メールをくれた相手の豪華な顔ぶれを見て、絶句してしまうのだった。ホントにこんな人たちと雑誌を作るのかよ……。

ハービー・ハンコックからは「7月に日本に行くから、まず会って話だけでもしないか」とのこと。8月に改めて自宅で取材するといい、とまで書いてくれていた。スティーブ・ウォズニアク(ジョブズと共に、アップルを創業した人物)は上旬だったら自宅にいるけど、どうにか都合はつかないの?というような返事をくれた。他にも、コンピュータの上に初めてゴミ箱を作った人物、ハイパーカードを作った天才プログラマーなどなど、贅沢きわまりない取材名簿が出来上がって行った。

コンピュータの専門職以外で、非常に目についたのはミュージシャンとグラフィックデザイナー、続いてお医者さんと雑誌編集者。そうそう、雑誌『Wired』の編集部に行けたことも、今となったら僕のその後を左右する大きな出来事だったと思う。古い倉庫を改造し、ポップな色にペイントされたドラム缶を並べ、その上に天板を渡してデスクを作る。そんなシンプルでありながら明るい編集部のようすに、やっぱ雑誌ってこのくらい身軽じゃなきゃなぁ、なんて、ココロから共感したもんだった。

ところで、なぜ急にコンピュータの話なんて始めたんだろう? と思う人が多いかもしれない。その答えは、このシリーズの終わり頃にわかる予定なので、とにかく書き進めて行きたいと思います。(続く)
by west2723 | 2008-11-24 22:53 | 雑誌作り

雑誌の神さま2〜1993年〜スクリーンセーバー

「たしかに、これからしばらくの間はコンピュータが面白いかもしれないね。ただし、このテーマで雑誌を作ろうと思うんだったら、今見ることのできる一番いいものを見ておかなくてはいけない。いいものを見るためにカネを惜しんではいけない。ケチなヤツに雑誌なんて作れないし、ケチなヤツというのは口数だけは多いけど、決して世の中を動かすことなどできないんだ」
初めて個人的に買ったコンピュータ〈Macintosh Color Classic〉のスクリーンセーバーが起動した時に、雑誌の神さまはモニターに勝手に現れ、およそ冒頭のようなことを語っていた。

ところでこれは……いったい何なんだ。あんたは誰なんだ。そして何より、どうしてテレビみたいに画面が動くんだ……。もしかすると、コンピュータが出荷される時に仕組まれたイタズラなのかもしれない、と思いながら、うっかりマウスを触ったら、スクリーンセーバーは落ちて、いつものデスクトップに戻っていた。以降、何度スクリーンセーバーを起動させても、神さまの姿は現れなかった。

それから間もなく、10日も経たない頃に、アップルコンピュータからの仕事が舞い込んだ。「これから日本市場に本格参入するにあたり、Macintoshをテーマに1冊作ってもらえないか」というものだった。「Macを広く認知してもらえる内容であれば、どのようなものでも構わない。制作費はもちろん、雑誌が1冊も売れなくても赤字を出さないよう、十分な予算は用意している」
もうすでにバブル経済も終わって、失われた10年のうちの2年目くらいに入っていた頃だったと思うけれど、今思えばけっこう気前のいい話だった。

「だったらとにかく、アメリカに行かないと話にならない」と僕は答えた。この頃、盛んに語られ始めた「情報ハイウエイ」とは何なのかを見ておきたかったし「何よりもまず、コンピュータを文房具に変えてしまった人たちのカクメイ的な発想を見ておきたい。それさえできれば、彼らの現場での姿や、これを使いこなしているユーザーたちのようすを伝えるだけで、この雑誌の使命は自ずと全うできるはずだと思う」というような言葉を、僕は流れるように語った。つまり、いちばんおいしい部分を見ながら、いちばんラクな方法で雑誌を作ろうというわけ。僕なんて、それまでコンピュータにはほとんど関心の無かったビギナーなのに、うまく行く時はいつもこうなのだ。
by west2723 | 2008-11-24 21:59 | 雑誌作り